Koike's Lemma

ITやビジネスに関する雑記

どんぐりと山猫とダメ人間

この記事はいきいき Advent Calendar 2021 - Adventarの17日目の記事である。


自分が働いている岩手県で活躍した作家、宮沢賢治の作品に「どんぐりと山猫」という童話がある。
www.aozora.gr.jp

この作品は大正13年に発表されたものであるが、昔の作品にも関わらず、競争社会と「いきいき」とした暮らしの間の葛藤が大きなテーマになっている。
実際、この作品が掲載された童話集「注文の多い料理店」の新刊案内では
本作品について「必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥からの反響」だと説明されている。

ここでは、「どんぐりと山猫」を参考にして、「いきいき」過ごすことについて考察したい。


「どんぐりと山猫」は主人公である一郎が、不思議な森の世界に招待される話である。
この世界にいるどんぐりなどの住人は賢くなく、非合理的、非効率的な発言を繰り返しているが、みんな「いきいき」している。
一郎もこの世界に招待され心を躍らせる経験をするが、最終的にはどんぐりや山猫に正論を述べて黙らせてしまう。
そして、うちに戻るとどんぐりは黄金色から茶色に変化し、二度とこの世界に招待されなくなるのである。


ここで取り上げられている問題点は、合理的であるということと、「いきいき」しているということは一致しないということである。
合理的であるというのは、他人から評価されると言い換えてもいいかもしれない。
「いきいき」についてイメージするとき、他人から評価される事柄が思い浮かぶに違いない。
仕事が充実していたり、家族と楽しい時間を過ごしたりなどが典型的な例になるだろう。
なので、ドラマにハマって徹夜で見てしまうような人のことを「いきいき」した人物として思い浮かべることはあまりない気がする。
しかし、「どんぐりと山猫」のどんぐりたちと同様にドラマを徹夜で見てしまう人達も「いきいき」しているように思われる。
つまり、他人から評価されない「いきいき」も存在するということだ。


競争社会においては他人から評価される行いを「いきいき」と実施するためのテクニックは重要である。
現代人はそのような「いきいき」テクニックをどんどん身につけていかなくてはならない。
しかし、競争社会における合理性の外側にある「いきいき」は見ないことにするべきものなのだろうか。
私はそうは思わない。
むしろ、競争社会には何の役にも立たないような「いきいき」を見つめることで、自分自身の生き方について真に考えられるようになるのではないかと思う。


私たちは、他人から評価される行動を良い行動、評価されない行動を悪い行動と考え、日々の暮らしの中で、その意味での良い行動を行おうとしている。
しかし、「いきいき」は、そのような軸とは別の軸に存在するものだと思う。
「いきいき」しているかどうかは、他人に評価されるかどうかとは別物である。

私たちは「絶対に評価されなくてはならない」という呪縛から逃れて「いきいき」の軸があることに気づかなければならない。
そしてその両方の軸を考えられるようになることが、豊かな暮らしを考える上で大切なのではないかと思う。


それでは、日々の暮らしの中でどのように「いきいき」を見つけていけばいいだろうか。
「評価されたい」という欲望に汚染された私たちには、評価されないエリアにある「いきいき」を見つけることは難しい。
私たちは評価されないものをフィルタリングして見ないようにする癖がついてしまっている。


この問題に対処するため、再び「どんぐりと山猫」を参考にしたい。
「どんぐりと山猫」において、主人公の一郎は合理的でないどんぐりたちへの愛着を持っていた。
私たちも同様の愛着を持つことが重要なのではないかと思う。
そして、現代社会において、どんぐりのような合理的でない「いきいき」したものとは、ダメ人間のことではないかと考えている。

ダメ人間のダメたる所以は、他人から評価されないということである。
しかし、ダメ人間により主体的に行われるダメ行動は「いきいき」しているように思われる。
ダメ人間こそ、上図の評価されないエリアにある「いきいき」なのではないかと思うのだ。


近年、教育においてアートを教えることの重要性が主張されるようになってきている。
しかし、多くのアート作品においては、その作品が生み出される背景を理解しないと作品のメッセージを受け取ることは難しい。
何の知識もないまま作品を見て何かを感じろと言われても、それは映画においてクライマックスのシーンだけを見せられているようなものであり、深い考察をすることはなかなかできない。
一方、身近にいるダメ人間については、背景を把握しやすい。
ダメ人間の行動が自分の利害に関わるのであれば、否が応でも自分の感情が揺さぶられる。
なので自分には、アートよりもダメ人間からの方が多くのことを吸収できるような気がするのである。


私たちは生まれた時から、競争社会で生きることを義務付けられている。
そこでは競争社会でうまく生き抜くテクニックが重要である。
しかし、時代が大きく変化している今、そのようなテクニックよりも、競争社会のあり方そのものを改善できるようなアイデアを出せることが重要になってくるのではないかと思われる。
例え話で言うなら、モグラ叩き機から出てくる憎きモグラを叩くテクニックよりも、モグラ叩き機の電源を切る方法を見つけることの方が重要なのである。
そのような上流思考をする際、拠り所になるのは「いきいき」ではないかと思われる。
その場合、競争原理を無視して行動するダメ人間こそが重要な思考材料になるのではないだろうか。


ということで、ダメ人間を見ないことにしてはならない。むしろダメ人間に愛着を持つことで今まで気づけなかった新しい「いきいき」を発見できるようになる。
最後に、これまで自分の周りにいたダメ人間たち(自分のことは棚に上げておこう)との出会いに感謝して、この文章を終えようと思う。